2015年10月28日水曜日

ゲノムワイドなヒト進化の解析

遺伝学会が発行する学術雑誌,Genes and Genetic Systems(GGS)にゲノムワイドなヒト進化の研究についての特集を取りまとめさせていただきました.

基本方針として,僕よりさらに若い方に著者になっていただくことにしました.合わせて4本のレビューが掲載されています.割と一般の研究者向けの話になっているのではないかと思います.

それぞれの論文の紹介は序文で簡単にしています.オープンアクセスなので興味のある方はご覧ください.

https://www.jstage.jst.go.jp/browse/ggs

ついでにもう1つ宣伝ですが,細胞工学の連載,「古代ゲノムで辿る人類史」に一筆寄稿させていただきました.こっちはオープンアクセスではないので興味ある方は買ってください.

http://gakken-mesh.jp/journal/detail/9784780901726.html

2015年10月16日金曜日

中国南部で10万年前のHomo sapiensの歯が見つかる

http://www.nature.com/nature/journal/vaop/ncurrent/full/nature15696.html

Natureの記事から簡単に.

これまでの定説では現代人のアフリカからの拡散は5,6万年前だとされていましたが,中国の道県で見つかった8~12万年前の歯は現代人と同じ形態を持っていたそうです.

彼らがその後どうなったのか.色々な証拠が出てくるほど,現代人の進化の過程は昔考えられていたものよりも複雑になってきそうです.

2015年9月9日水曜日

中立説とほぼ中立説との違い

中立説とほぼ中立説については過去のエントリーで,「遺伝」に寄稿した文章の一部を載せました.ただし,専門家であっても中立説とほぼ中立説の違いについては,概念的な問題であるせいもあって意見が一致しないところもあります.ここではその違いについて私見を書いてみます.

まずは中立説について.中立説の一番重要な主張は,「集団に固定した変異のほとんどは中立である」ということです.もちろん稀なケースとして有利な変異が固定することを否定していませんし,そもそも多くの変異は有害であることは当然のこととして認識されています.もう一点大事なことは,後でも触れますが,集団内のプロセスを考える場合には木村先生はしばしば「effectively neutral」という言葉を用いており,アリルが「結果として」中立的にふるまう,ということが強調されています.

一方,集団内の多型については,頻度がある程度のもの,例えば1%より高いものについては多くが中立であるが,それ以下の頻度のものは弱有害か有害であると考えていたようです(1).「分子進化*」の中立説の中に集団内の多様性が中立かどうかという話題が含まれるかどうかは微妙ですが,晩年の論文などを見る限り,木村先生は集団中の多様性も中立な変異によって決まっており,集団内での多様性も突然変異率によって決まっていると考えていたようです(2).残念ながら,現在ではこのパターンはあまりあてはまらないことが知られています.これをもって中立説が否定されたとする論文もありますが,この晩年の考えが中立説に含まれるのかどうかは実際わかりません.

太田先生のほぼ中立説に話を移します.太田先生のほぼ中立説は当初は弱有害な変異が固定したり,集団中に存在したりすることが主眼になっていましたが,その後多少の修正を経て,「進化には淘汰と浮動の両方が関わるような変異が重要である」ということと,「弱有害な変異が固定すると同時に,弱有利(slightly advantageous)な変異が固定することもある」というように拡張されました(3)

この2つの説の違いは言葉でいうと結構違っているようにも感じますが,いろいろと難しい問題を含んでいます.まずは集団に固定した変異が中立であるか弱有害であるかについて考えてみます.

太田先生のほぼ中立説の妥当性を強く示していると考えられる1つの証拠が,生物の集団サイズと進化速度との関係です.哺乳類のいろいろな系統では,相対的な(突然変異率で基準化された)アミノ酸の置換率がその生物の長期的な集団サイズと負の相関を示していることが知られています.これはほぼ中立説の予測に一致します.しかしこれは中立説からも同様に予想できることです.中立説であっても,集団サイズが小さくなると自然選択の有効性が下がりますので,「effectively neutral」な変異の割合が増え,そのような集団では置換速度が上がります.つまり2つの説の予測は同じであり,これをもってどちらの説がよくあてはまるかを論じることはできません.

しかし,あえて違いを感じ取るとすると「effectively neutral」と「neutral」の違いではないかと思います.集団遺伝学の固定確率の式では,有効集団サイズNと選択係数sとが近似的には積の形だけで表れます.Nsがある程度(定義とモデルによって違いますが一般的には絶対値が1以下)であるとそのような変異は「effectively neutral」であるとみなせます.しかし,生物学的見地に立ってみれば,有害の度合い,つまりsの値は絶対的な値であり,結果として中立的に振る舞うようになったとしても,以前より「生物学的に」有害な変異が固定したのであればそれは有害なものであると考える方が自然であるように感じられます.もう1点の違いは,ほぼ中立説では「固定確率が中立な変異よりも低いが0ではない変異」の重要性を考えています.これらの変異は例え固定したとしてもeffectively neutralとは言えないのかもしれませんが,実際の淘汰圧が分からない限り実際のデータから区別することは難しいでしょう.

もう1点は過去のエントリーでも述べていますが,世代時間と分子進化速度との関係です.中立説ではこれは説明できなく,突然変異は年あたり一定という説明が必要ですが,ほぼ中立説は集団サイズと世代時間の負の相関によって説明ができます.ただし,突然変異率の推定は未だに難しいことが多く,古くからモデルとなってきた世代あたり一定の突然変異率という前提が本当に正しいのかということに対する明確な答えは出ていません.ヒトの場合,父親の年齢に従って突然変異の数が上がることが知られており,これが突然変異を年あたり一定にする方向に働いているのかもしれません(4).また,ヒトのミトコンドリアの突然変異においては年あたり一定とした方がよさそうだという報告もあります(5)

最後に集団内の多様性に対する考えです.置換率の問題と同様,ほぼ中立説では集団サイズが小さくなれば,それだけ弱有害な変異が集団中に存在することになります.最近になって様々な生物集団で遺伝的多様性が調べられていますが,どうやらこのパターンは不変的にみられるようです.それではこのパターンは中立説でも説明できるのでしょうか.木村先生の考えでは集団中である程度の頻度にある変異はほとんど中立であるとしました.集団サイズが小さくなると今まで有害であった変異が「effectively neutral」になります.したがってもともと弱有害であった変異が集団中に広まることができるようになりますから,予測はほぼ中立説と変わりません.

ところが,実際の集団中の変異の頻度を見てみると,アミノ酸を変えるようなDNAの変異は変えないような変異よりもより頻度の低い方に偏っています.頻度が比較的高い,例えば10%以上の頻度のものであってもアミノ酸を変える変異の割合が期待値よりも多くなっているようです(6).そのようなパターンを見る限りは,やはり「effectively neutralとそれ以外」といったような分け方をするのではなく,太田先生のモデルのように連続的な選択圧のパラメータを考えた方が現実に近いのではないかと思います.

これらのことを踏まえると,本質的な違いはやはり,もともと弱有害だった変異が結果として中立になったときにそれを弱有害ととらえるか中立ととらえるかという問題が,大きな考え方の違いだったのではないかと考えています.ただ,考え方が違っていたとしても,予測される結果が重なっているところが多く,違いがなかなか理解されにくいのかもしれません.

1.       M. Kimura, Mol. Biol. Evol. 1, 84 (December 1, 1983, 1983).

2.       M. Kimura, The Japanese Journal of Genetics 66, 367 (1991).

3.       T. Ohta, Annual Review of Ecology and Systematics 23, 263 (1992).

4.       A. Kong et al., Nature 488, 471 (Aug 23, 2012).

5.       Q. Fu et al., Nature 514, 445 (10/23/print, 2014).

6.       A. Kiezun et al., PLoS Genet. 9, e1003301 (2013).

* 分子進化は一般的には固定した変異だけを考える.

2015年8月25日火曜日

留学のすゝめ

UJA (United Japanese Researchers Around the World) さんが実験医学で連載している「留学のすゝめ」という記事に「ポスドクからの留学先の選び方」というタイトルで体験談を寄稿させていただきました.

以下のURLより記事の一覧が参照できます.Web記事なので誰でも読めます.

https://www.yodosha.co.jp/jikkenigaku/ryuugaku/susume_5.html

アメリカに留学したのはずいぶん昔の話なのですが,これから留学を考えている人の背中を少しでも押すことができればよいのではないかと考えています.

2015年6月17日水曜日

2015年6月16日火曜日

A naturally occurring variant of the human prion protein completely prevents prion disease

相当なご無沙汰ですが,忘れ去られないようにボチボチ更新します. 

話題にするのはNatureで発表された論文です. 

タンパク質のフォールディングがうまく行われないことにより,細胞内で凝集し,細胞に対して毒性を示すことがあります.プリオン病(prion)はその一つの例です.プリオンは感染性のタンパク質の総称ですが,その中でプリオンタンパク質遺伝子(PRNP)はヒトのクロイツフェルト=ヤコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease: CJD)やウシのウシ海綿状脳症(bovine spongiform encephalopathy: BSE)の原因として知られています.

この病原性タンパク質は正常のタンパク質と異なった立体構造を持っており,細胞外で凝集する性質があります.この凝集が中枢神経系においてアミロイド班と呼ばれる組織の変異をもたらし,中枢神経系の正常な働きを妨げ,感染個体を死に至らしめることが知られています.現在最も有力な仮説では,異常型プリオンは正常型プリオンの立体構造を何らかの方法で異常型に変えてしまうとされています.もっともよく知られているBSEの例では,変異型タンパク質を持った牛肉をウシの試料として用いたことが感染の原因であるとされています.

また,ヒトの例では死者を食べる習慣があったニューギニアのクールー地域でも似たような病気が知られています.この病気に対して抵抗性を持つ遺伝子型はこれまでいくつか知られていて,例えばPRNPタンパクの129番目のメチオニンがバリンとヘテロ接合で存在すると,CJDに対して抵抗性を持ちます.これは,ヘテロ接合によって異常型PRNPが変異型のフォールディングの伝搬が抑えられているからではないかと考えられています.

更に,2009年にニューギニアで行われた遺伝学調査では,クールーが広まっていた地域において,127番目のグリシンがバリンになっている変異を持った人が多く見られました.この変異は129番目がメチオニンであるアリルと完全に連鎖しています.この変異はクールーに罹患した人には見られなかったため,病気に対して抵抗性があるのではないかということが示唆されていました.この論文はその変異の効果をトランスジェニックマウスを使った実験によって更に詳しく調べたものです.

驚くことに,127番目がバリン,129番目がメチオニンのPRNPを持ったトランスジェニックマウスは,異常型プリオンに対して100%の抵抗性を示しました.また,129番目の変異の効果とは違い,127番目のバリンがホモ接合であっても100%の抵抗性を示しました.これは抵抗性のメカニズムがヘテロ接合による伝搬阻害とは異なっているということを示しています.

このアリルがクールー地域でだけ見つかったのは興味深いことで,恐らく非常に強い淘汰圧によって頻度が上昇していたのではないかと思われます.どれくらいの確率でこのような変異が起こりうるのか,というのが進化遺伝学的な疑問になりますが(つまり進化は必然だったのか,たまたま運よく変異が現れたのか),とにかく変異が起こって広まったのは事実なので,突然変異による適応の可能性の大きさを示していると思います.
 

2015年4月5日日曜日

異勤のお知らせ

4月1日より北大の情報科学研究科生命人間情報科学専攻に赴任いたしました. 所属の制約上実験よりもコンピュータによる解析が中心となります. 今後ともよろしくお願いいたします.大学院生,ポスドクの受け入れなど一緒に研究を行う興味がある方は是非連絡をください.

孤島におけるカニクイザルの遺伝的多様性

http://www.nig.ac.jp/Research-Highlights/1599/1630.html

2015年3月30日月曜日

入試問題

全く以て予想外だったのですが,一年とちょっと前に拙文を寄稿させていただいた「ヒトは病気とともに進化した」ですが,その中の文章が今年の中央大学の「国語」の入試に使用されたようです.

本業とは関係ないですが,少しは進化学の宣伝になったのであれば幸いです.確か僕も高校生の時に模擬試験だったか過去問だったかでドーキンスの「The selfish gene」の訳文を読んだのを覚えています.

2015年1月19日月曜日

ほぼ中立説

先日に引き続き,太田先生の「ほぼ中立説」ですが,専門外の方には色々と難しく誤解も多い話なので少し解説を加えておきます.

専門的なレビューは以下のものがあります.
Hiroshi Akashi*, Naoki Osada, Tomoko Ohta. Weak selection and protein evolution (review). Genetics 192:15-31 (2012) [Link].

一般の研究者・学生向けの文章を2013年に,「生物の科学 遺伝」に拙文を寄稿させていただきましたので,以下に原文の一部を掲載します.

分子進化の中立説とほぼ中立説
 

集団遺伝学の枠組みでは大きく4つの力が生物集団を遺伝的に支配していると考えられる.一番目の要素は変異である.変異が起こらず親が子供に全く同じゲノムのコピーだけを残し続ければ生物は進化しない.突然変異率は生物によって異なるとされているが,ヒトの常染色体DNAでは世代あたり1~2×10-8程度と見積もられている.つまり,ヒトゲノムのうち30~60個の塩基対が親から子供に伝わるときに変化する可能性がある.また,分子進化学では1980年代にすでに,父方由来の生殖細胞で起こる突然変異率が母方由来の生殖細胞で起こる突然変異率よりも数倍高いという仮説(male-driven evolution)が提唱され,広く受け入れられてきた1.近年では同一家系のヒトゲノムをすべて決定する試みが行われており,男性での突然変異率が女性での突然変異率よりも3倍から6倍高いという,分子進化学から得られたものと近い推定値が得られている2.これは世代あたりの生殖細胞の分裂回数がオスの方で高いことによるためであろう.二番目の要素は遺伝的浮動とも呼ばれる偶然の効果である.例えば,ある変異を父親から受け継いだ男性がいたとしよう.ほとんどの場合,子供に父親由来か母親由来の遺伝子が伝わる確率は2分の1なので,彼が子孫を2人残せば,その変異は4分の3の確率で子孫に伝わるが,4分の1の確率で次の世代には伝わらず失われてしまう.したがって,変異が集団に広まるかどうかというのは偶然の力に大きく左右される.集団内に変異が広まる過程を描いたのが図1である.三番目の要素は自然選択である.もし起こった変異が生存に有利ならそういった変異は偶然の結果よりも高い確率で,かつ速い速度で集団に広まることになる.反対に生存に不利な変異は子孫を残せる確率が減るので集団から取り除かれやすくなる.最後の主たる要素は遺伝的組み換えである.われわれのような倍数体の生物では両親由来の二本の染色体の間で組み換えが起こるし,より単純なバクテリアのような生物では別個体,時には別種間でも遺伝子の交換が起こることがある.集団遺伝学の理論は主にこの4つの力,変異,浮動,選択,組み換えによって構成されている.

集団遺伝学はダーウィンによる自然選択の理論とメンデルによる遺伝の法則を組み合わせることによって起こった.フィッシャー,ライト,ホールデンといった著名な集団遺伝学者がその後の理論の土台を作り上げたのだが,初期の集団遺伝学者の興味は,どうやってダーウィンの自然選択の理論が遺伝学の知識と矛盾せず,自然選択による進化が理論的に起こりうるのか,起こったとするとどのように起こったのか,ということであった.このネオ・ダーウィニズムと呼ばれる動きの根底にあったのは,生物の進化はすべて適応的で,自然選択は万能であるという考えであった.例えば,ホールデンはヒトの集団で有害な変異(この場合は遺伝病を起こす遺伝子変異)の起こる確率が,それを取り除こうとする自然選択との間で釣り合っていると仮定し,そこから有害な変異の起こる確率を推定しようとした.ところが,分子生物学の始まりとともに生命の働きを担うタンパク質やDNAの正体が明らかになり,実際の生物の分子データが集まってくると,それとは違った現象が観察され始めた.木村資生は集団遺伝学の理論の発展に貢献し,拡散方程式を用いることにより,集団中に有利または不利な変異が存在する確率とそれが集団全体に広まる確率を導出した.ところが,後にタンパク質やDNAなどの分子データが揃ってくると,木村は種間で固定した遺伝子の変化の数が,ネオ・ダーウィニズム的理論により予測されるよりも桁違いに多いことに気づいた3.また,種間のタンパク質の変異を実際に計ってみると,その置換速度はほぼ時間に比例していた.これらの観察事実を元に木村は分子進化の中立説という理論を発表した.中立説は,集団の中に広まった変異のほとんどは中立であるということを主張する.ここで重要なのは,「集団の中に広まった変異」という表現であり,変異そのものの多くは生存に有害であるということを忘れてはならない.

ヒトとチンパンジーの例を見てみよう.DNAの置換(一般に,集団すべてに広まった変異を置換と呼ぶ)にはタンパク質のアミノ酸を変えるような非同義置換と,アミノ酸を変えない同義置換とがある.おおざっぱに言ってしまえば,同義置換は同じアミノ酸をコードするので,生物の表現型にはほとんど影響を与えない.あるコドンをランダムに一つのDNAだけ変化させたときに,そのコドンが別のものになる(非同義置換)である確率はおよそ4分の3である.つまり,遺伝子のDNAをランダムに変化させると非同義置換と同義置換はおよそ3:1の割合で起こることになる.ところが,ヒトとチンパンジーのゲノム間にはおよそ40,000個の非同義置換と60,000個の同義置換とが観察され,その比はおよそ2:3である4.つまり7/9,およそ78%のアミノ酸の変異は進化の過程で取り除かれてしまう計算になる.したがって中立説のもとではタンパク質に起こる変異のうち78%が有害な変異,残り22%が中立な変異という計算になる.

中立説ははじめこそさまざまな批判を受けたが,次第にその有用性が認められ広まっていった.何より中立説が成立すると,DNAやタンパク質の進化速度はその機能や生物の特殊性に関わらず時間に比例することになり,DNAを調べることにより生物の分岐年代を推定することが可能になったのである.中立説が急速に広まった一つの理由は複雑な進化のプロセスを単純化できる明快さにあるだろう.ところが,中立説は概ね正しいと受け入れられてきた一方,いくつかの細かい問題点が指摘されるようになってきた5.一つはタンパク質の多様性の一定性である.中立説のもとでは,集団内の多様性は生物の集団サイズに相関する.ところが,さまざまな種でタンパク質の多様性を調べてみると,その多様性には上限があるように見えた.例えば,細菌や酵母のような単細胞生物はヒトのような哺乳類よりも数桁は大きい集団サイズを持っているのではないかと考えられるが,集団サイズが大きいような生物のタンパク質の多様性を見ても,それほど高い値は観察されなかった.この現象は中立説では説明できない.

もう一つの問題点は突然変異率と世代時間の問題である.従来の集団遺伝学の理論では,新しく変異が生まれる確率は世代あたり一定とされていた.われわれのような動物では生殖細胞で起こった変異のみが子孫に伝わる.変異が生殖細胞の分裂時に起こるDNAの複製エラーによるものだとすると,突然変異率は世代あたり一定と仮定するほうが自然である.しかし,世代の長さは生物によって異なるため,世代あたり一定の突然変異率では分子時計は成り立たない.このため,木村は突然変異率を世代あたりではなく年あたり一定と仮定して議論を進めた.

これらの問題を解決するために提案されたのが,太田朋子によって提唱されたほぼ中立説である6.ほぼ中立説では,自然選択と浮動の両方の効果が働くような変異が進化にとって重要であると提唱する.集団遺伝学の理論から得られた重要な結論のひとつに,自然選択の強さは集団の大きさに影響を受けるという予測がある.例えば非常に弱い効果であるが生物の適応度を下げるような変異があったとしよう(太田はこれらの変異を弱有害変異と呼んだ).この変異は小さい集団では偶然の効果(遺伝的浮動)により集団中に広まることができるが,大きな集団では自然選択のふるいから逃れることができない.つまり,このような変異は集団が小さい種では広まることができるが,大きい種では広まることができない.このような弱有害変異を考えることにより,中立説に対して指摘された二つの問題を解決することができる.タンパク質の多様性は集団が大きくなるにしたがって大きくなりうるが,集団が大きくなると今度は集団にかかる選択が強くなり,二つの力が打ち消しあって多様性は頭打ちになる.また,一般に世代時間が長い生物は集団サイズが小さい傾向にある.哺乳動物での例を挙げると,世代時間が長いヒトやゾウは世代時間が短いマウスなどよりも一般的に交配集団が小さい.突然変異率が世代あたり一定だとすると,世代の長い生物の遺伝子の年あたりの進化速度は遅くなるが,逆にこういった生物では弱有害変異が多く広まるため,年あたりの進化速度はやはり打ち消しあってほぼ一定になると考えられる.ただし,突然変異率と世代数の正確な推定にはいまだに様々な問題が存在する.現在行われている様々な生物での大規模なゲノム解析が進めば,より良い推定値が今後得られるであろう.

それでは,ヒトがチンパンジーと別れてから両者に広まった弱有害変異の割合とはどれくらいなのか,ほぼ中立説の仮定のもとに見積もってみよう.ヒトとマウスのゲノムを比べて,非同義置換と同義置換の数を数えてみると,その比はおよそ1:5であり,ヒトとチンパンジー間の比より大幅に小さい.一般に霊長類では変異あたりの相対的なタンパク質の進化速度は高くなっており,ヒトに系統的に近くなればなるほど進化速度はさらに早くなってくるデータが得られている.ほぼ中立説のもとでは,ヒトとマウスの共通祖先から現在まで至る歴史の中での集団は,霊長類のものよりも大きいと考えられるので,ヒトとマウスとの進化過程ではより効率的に非同義変異が取り除かれていると考えることができる.上記の例だと,ヒトとチンパンジーとのアミノ酸の差のうち,およそ70%は集団が小さくなったことによって遺伝的浮動が強くなり,集団中に広まったものと考えることができる.この推定値は非常に高く,初期の推定値は驚きをもって受け入れられた7

集団中に有害な変異が蓄積しているというのはこの他にも多くのデータから支持されている.ではわれわれは本当に進化の袋小路に入ってしまっているのだろうか.希望的な理論もある.タンパク質に起こる変異の多くは有害なものであるが,それを補完する変異も存在する.例えば,複合体を作っているタンパク質の接触面にあるアミノ酸の電荷が正から負に変わったとしよう.電荷の変化はタンパク質複合体の頑丈さに影響を与えるので,通常はこの変異は有害であるが,もう一方のタンパク質の接触面にあるアミノ酸の電荷が負から正に変われば,全体としての機能を保つことができる.このように,二つ以上の変異の相互作用を遺伝学ではエピスタシスと呼ぶ.エピスタシスは異なったタンパク質間でも,同じタンパク質の間でも働きうる.また,遺伝子発現にかかわる転写因子とその結合領域との間にも存在しうるだろう.太田はこのような複雑なエピスタシスが弱有害変異を生み出すメカニズムの一つであると提唱している8

1 T. Miyata, H. Hayashida, K. Kuma et al., Cold Spring Harb. Symp. Quant. Biol. 52, 863 (1987).
2 A. Kong, M. L. Frigge, G. Masson et al., Nature 488 (7412), 471 (2012).
3 Motoo Kimura, Nature 217 (5129), 624 (1968).
4 The Chimpanzee Sequencing and Analysis Consortium, Nature 437 (7055), 69 (2005).
5 Hiroshi Akashi, Naoki Osada, and Tomoko Ohta, Genetics 192 (1), 15 (2012).
6 T. Ohta, Nature 246, 96 (1973).
7 A. Eyre-Walker and P. D. Keightley, Nature 397 (6717), 344 (1999).
8 Tomoko Ohta, Genome Biol. Evol. 3, 1034 (2011).


追記:文献7のところは勘違いで,文脈とは少し外れたものを取り上げてしまっていましたので訂正しました.

2015年1月15日木曜日

クラフォード賞

当研究室に毎日いらしてくださる太田朋子先生がスウェーデンのクラフォード賞を受賞したそうです.おめでとうございます.

日本人では3人目ということで非常に価値のあるものではないでしょうか.

以下はクラフォード賞に関するWikipediaへのリンクです.

Wikipedia