専門的なレビューは以下のものがあります.
Hiroshi Akashi*, Naoki Osada, Tomoko Ohta. Weak selection and protein evolution (review). Genetics 192:15-31 (2012) [Link].
一般の研究者・学生向けの文章を2013年に,「生物の科学 遺伝」に拙文を寄稿させていただきましたので,以下に原文の一部を掲載します.
分子進化の中立説とほぼ中立説
集団遺伝学の枠組みでは大きく4つの力が生物集団を遺伝的に支配していると考えられる.一番目の要素は変異である.変異が起こらず親が子供に全く同じゲノムのコピーだけを残し続ければ生物は進化しない.突然変異率は生物によって異なるとされているが,ヒトの常染色体DNAでは世代あたり1~2×10-8程度と見積もられている.つまり,ヒトゲノムのうち30~60個の塩基対が親から子供に伝わるときに変化する可能性がある.また,分子進化学では1980年代にすでに,父方由来の生殖細胞で起こる突然変異率が母方由来の生殖細胞で起こる突然変異率よりも数倍高いという仮説(male-driven evolution)が提唱され,広く受け入れられてきた1.近年では同一家系のヒトゲノムをすべて決定する試みが行われており,男性での突然変異率が女性での突然変異率よりも3倍から6倍高いという,分子進化学から得られたものと近い推定値が得られている2.これは世代あたりの生殖細胞の分裂回数がオスの方で高いことによるためであろう.二番目の要素は遺伝的浮動とも呼ばれる偶然の効果である.例えば,ある変異を父親から受け継いだ男性がいたとしよう.ほとんどの場合,子供に父親由来か母親由来の遺伝子が伝わる確率は2分の1なので,彼が子孫を2人残せば,その変異は4分の3の確率で子孫に伝わるが,4分の1の確率で次の世代には伝わらず失われてしまう.したがって,変異が集団に広まるかどうかというのは偶然の力に大きく左右される.集団内に変異が広まる過程を描いたのが図1である.三番目の要素は自然選択である.もし起こった変異が生存に有利ならそういった変異は偶然の結果よりも高い確率で,かつ速い速度で集団に広まることになる.反対に生存に不利な変異は子孫を残せる確率が減るので集団から取り除かれやすくなる.最後の主たる要素は遺伝的組み換えである.われわれのような倍数体の生物では両親由来の二本の染色体の間で組み換えが起こるし,より単純なバクテリアのような生物では別個体,時には別種間でも遺伝子の交換が起こることがある.集団遺伝学の理論は主にこの4つの力,変異,浮動,選択,組み換えによって構成されている.
集団遺伝学はダーウィンによる自然選択の理論とメンデルによる遺伝の法則を組み合わせることによって起こった.フィッシャー,ライト,ホールデンといった著名な集団遺伝学者がその後の理論の土台を作り上げたのだが,初期の集団遺伝学者の興味は,どうやってダーウィンの自然選択の理論が遺伝学の知識と矛盾せず,自然選択による進化が理論的に起こりうるのか,起こったとするとどのように起こったのか,ということであった.このネオ・ダーウィニズムと呼ばれる動きの根底にあったのは,生物の進化はすべて適応的で,自然選択は万能であるという考えであった.例えば,ホールデンはヒトの集団で有害な変異(この場合は遺伝病を起こす遺伝子変異)の起こる確率が,それを取り除こうとする自然選択との間で釣り合っていると仮定し,そこから有害な変異の起こる確率を推定しようとした.ところが,分子生物学の始まりとともに生命の働きを担うタンパク質やDNAの正体が明らかになり,実際の生物の分子データが集まってくると,それとは違った現象が観察され始めた.木村資生は集団遺伝学の理論の発展に貢献し,拡散方程式を用いることにより,集団中に有利または不利な変異が存在する確率とそれが集団全体に広まる確率を導出した.ところが,後にタンパク質やDNAなどの分子データが揃ってくると,木村は種間で固定した遺伝子の変化の数が,ネオ・ダーウィニズム的理論により予測されるよりも桁違いに多いことに気づいた3.また,種間のタンパク質の変異を実際に計ってみると,その置換速度はほぼ時間に比例していた.これらの観察事実を元に木村は分子進化の中立説という理論を発表した.中立説は,集団の中に広まった変異のほとんどは中立であるということを主張する.ここで重要なのは,「集団の中に広まった変異」という表現であり,変異そのものの多くは生存に有害であるということを忘れてはならない.
ヒトとチンパンジーの例を見てみよう.DNAの置換(一般に,集団すべてに広まった変異を置換と呼ぶ)にはタンパク質のアミノ酸を変えるような非同義置換と,アミノ酸を変えない同義置換とがある.おおざっぱに言ってしまえば,同義置換は同じアミノ酸をコードするので,生物の表現型にはほとんど影響を与えない.あるコドンをランダムに一つのDNAだけ変化させたときに,そのコドンが別のものになる(非同義置換)である確率はおよそ4分の3である.つまり,遺伝子のDNAをランダムに変化させると非同義置換と同義置換はおよそ3:1の割合で起こることになる.ところが,ヒトとチンパンジーのゲノム間にはおよそ40,000個の非同義置換と60,000個の同義置換とが観察され,その比はおよそ2:3である4.つまり7/9,およそ78%のアミノ酸の変異は進化の過程で取り除かれてしまう計算になる.したがって中立説のもとではタンパク質に起こる変異のうち78%が有害な変異,残り22%が中立な変異という計算になる.
中立説ははじめこそさまざまな批判を受けたが,次第にその有用性が認められ広まっていった.何より中立説が成立すると,DNAやタンパク質の進化速度はその機能や生物の特殊性に関わらず時間に比例することになり,DNAを調べることにより生物の分岐年代を推定することが可能になったのである.中立説が急速に広まった一つの理由は複雑な進化のプロセスを単純化できる明快さにあるだろう.ところが,中立説は概ね正しいと受け入れられてきた一方,いくつかの細かい問題点が指摘されるようになってきた5.一つはタンパク質の多様性の一定性である.中立説のもとでは,集団内の多様性は生物の集団サイズに相関する.ところが,さまざまな種でタンパク質の多様性を調べてみると,その多様性には上限があるように見えた.例えば,細菌や酵母のような単細胞生物はヒトのような哺乳類よりも数桁は大きい集団サイズを持っているのではないかと考えられるが,集団サイズが大きいような生物のタンパク質の多様性を見ても,それほど高い値は観察されなかった.この現象は中立説では説明できない.
もう一つの問題点は突然変異率と世代時間の問題である.従来の集団遺伝学の理論では,新しく変異が生まれる確率は世代あたり一定とされていた.われわれのような動物では生殖細胞で起こった変異のみが子孫に伝わる.変異が生殖細胞の分裂時に起こるDNAの複製エラーによるものだとすると,突然変異率は世代あたり一定と仮定するほうが自然である.しかし,世代の長さは生物によって異なるため,世代あたり一定の突然変異率では分子時計は成り立たない.このため,木村は突然変異率を世代あたりではなく年あたり一定と仮定して議論を進めた.
これらの問題を解決するために提案されたのが,太田朋子によって提唱されたほぼ中立説である6.ほぼ中立説では,自然選択と浮動の両方の効果が働くような変異が進化にとって重要であると提唱する.集団遺伝学の理論から得られた重要な結論のひとつに,自然選択の強さは集団の大きさに影響を受けるという予測がある.例えば非常に弱い効果であるが生物の適応度を下げるような変異があったとしよう(太田はこれらの変異を弱有害変異と呼んだ).この変異は小さい集団では偶然の効果(遺伝的浮動)により集団中に広まることができるが,大きな集団では自然選択のふるいから逃れることができない.つまり,このような変異は集団が小さい種では広まることができるが,大きい種では広まることができない.このような弱有害変異を考えることにより,中立説に対して指摘された二つの問題を解決することができる.タンパク質の多様性は集団が大きくなるにしたがって大きくなりうるが,集団が大きくなると今度は集団にかかる選択が強くなり,二つの力が打ち消しあって多様性は頭打ちになる.また,一般に世代時間が長い生物は集団サイズが小さい傾向にある.哺乳動物での例を挙げると,世代時間が長いヒトやゾウは世代時間が短いマウスなどよりも一般的に交配集団が小さい.突然変異率が世代あたり一定だとすると,世代の長い生物の遺伝子の年あたりの進化速度は遅くなるが,逆にこういった生物では弱有害変異が多く広まるため,年あたりの進化速度はやはり打ち消しあってほぼ一定になると考えられる.ただし,突然変異率と世代数の正確な推定にはいまだに様々な問題が存在する.現在行われている様々な生物での大規模なゲノム解析が進めば,より良い推定値が今後得られるであろう.
それでは,ヒトがチンパンジーと別れてから両者に広まった弱有害変異の割合とはどれくらいなのか,ほぼ中立説の仮定のもとに見積もってみよう.ヒトとマウスのゲノムを比べて,非同義置換と同義置換の数を数えてみると,その比はおよそ1:5であり,ヒトとチンパンジー間の比より大幅に小さい.一般に霊長類では変異あたりの相対的なタンパク質の進化速度は高くなっており,ヒトに系統的に近くなればなるほど進化速度はさらに早くなってくるデータが得られている.ほぼ中立説のもとでは,ヒトとマウスの共通祖先から現在まで至る歴史の中での集団は,霊長類のものよりも大きいと考えられるので,ヒトとマウスとの進化過程ではより効率的に非同義変異が取り除かれていると考えることができる.上記の例だと,ヒトとチンパンジーとのアミノ酸の差のうち,およそ70%は集団が小さくなったことによって遺伝的浮動が強くなり,集団中に広まったものと考えることができる.
集団中に有害な変異が蓄積しているというのはこの他にも多くのデータから支持されている.ではわれわれは本当に進化の袋小路に入ってしまっているのだろうか.希望的な理論もある.タンパク質に起こる変異の多くは有害なものであるが,それを補完する変異も存在する.例えば,複合体を作っているタンパク質の接触面にあるアミノ酸の電荷が正から負に変わったとしよう.電荷の変化はタンパク質複合体の頑丈さに影響を与えるので,通常はこの変異は有害であるが,もう一方のタンパク質の接触面にあるアミノ酸の電荷が負から正に変われば,全体としての機能を保つことができる.このように,二つ以上の変異の相互作用を遺伝学ではエピスタシスと呼ぶ.エピスタシスは異なったタンパク質間でも,同じタンパク質の間でも働きうる.また,遺伝子発現にかかわる転写因子とその結合領域との間にも存在しうるだろう.太田はこのような複雑なエピスタシスが弱有害変異を生み出すメカニズムの一つであると提唱している8.
1 T. Miyata, H. Hayashida, K. Kuma et al., Cold Spring Harb. Symp. Quant. Biol. 52, 863 (1987).
2 A. Kong, M. L. Frigge, G. Masson et al., Nature 488 (7412), 471 (2012).
3 Motoo Kimura, Nature 217 (5129), 624 (1968).
4 The Chimpanzee Sequencing and Analysis Consortium, Nature 437 (7055), 69 (2005).
5 Hiroshi Akashi, Naoki Osada, and Tomoko Ohta, Genetics 192 (1), 15 (2012).
6 T. Ohta, Nature 246, 96 (1973).
8 Tomoko Ohta, Genome Biol. Evol. 3, 1034 (2011).
追記:文献7のところは勘違いで,文脈とは少し外れたものを取り上げてしまっていましたので訂正しました.