邦題は「進化の謎を数学で解く」.進化学者A.ワグナーさんが書いた本で,原題は「Arrival of the fittest: Solving evolution's greatest puzzle」となっています.邦題の「数式で解く」というのは間違ってはいないと思うのですが,数式よりもコンピュータで解くといったほうがわかりやすいのではないかと思います.表紙に数式が載っていますが,本文に数式は1つも出てきません.
この本の主題は「どうやって新しい機能を持つ代謝機構・タンパク質・遺伝子調節機構が生まれてきたか」ということで,生物が持つネットワーク構造に関する著者らの研究を中心に,一般的な進化に関する解説や生物進化と技術の進化の類似性など,読み物としても面白く構成されています.ところどころ入ってくる冗長な表現(たとえ話)さえ気にならなければ面白く読めるでしょう.生物がこれまでの機能を維持したまま全く新しい表現型を獲得するカギは,代謝機構・タンパク質・遺伝子調節機構などのさまざまな場面で登場するネットワーク構造であるというのが話の筋です.
著者のように遺伝子1つ1つを研究するのではなく,それらが作り出すネットワークの総体を研究する領域を一般的には「システム生物学」と呼んだりします. このような比較的新しい分野の研究者はしばしば古典的な(進化の総合説のような)還元論的な考えを徹底的にこき下ろしますが,この著者は進化学に関して十分なバックグラウンドを持ち過去の研究について十分な敬意を払っていますので,一般的な生物学者にも受け入れやすい内容になっているのではないかと思います.訳者解説では「衝撃的」と書かれていますが,むしろ還元論的な進化の総合説をむやみやたらと否定せず,その延長として自説を展開しており,非常にバランスが取れている本だと感じます.
少し専門的なところで1点だけコメントを.冗長性がイノベーションのカギという著者の議論は説得力があります.ではなぜその冗長性が生まれたのでしょうか.本の後半で著者は変化する環境への適応がその答えであるといっています.この議論も証明は難しいですが理に適っているようには聞こえます.
ところが,その直前で中立進化の役割について述べている箇所における考えについては少々疑問が残ります.表現型に現れない中立な進化を用いてネットワークを探索することができるので,生物のイノベーション能が保たれているというような考え方です.この考えは進化学者の間でもしばしば議論になる「進化しやすさの進化(evolution of evolvability)」に関わっています.つまり,進化しやすさはそのために進化してきたのか,それとも何かの副産物なのかという問題です.
一般的に進化は行き当たりばったりでその場しのぎです.将来起こる「かもしれない」変化に対応するための選択圧,将来起こる「かもしれない」突然変異に対する選択圧というのは,今現在起こっている生存に対する選択圧よりもずっと弱いはずです.従って最も強い力を持つのは今現在の力であり,短いスパンでの環境の変化若しくは熱力学的な分子の揺らぎに対する選択圧がネットワーク構造による冗長性を作っているのではないか,突然変異に対して頑健性を持ったり,新しい表現型を作り出したりするシステムはその副産物ではないかという考えが僕の好みです.昨年発表した論文でも少しだけその考えをまとめさせてもらいました.
というわけで,少々読みずらいですが面白い本であることは間違いないので興味がある方は一読することをお勧めします.既に古典となりつつあるカウフマンの「自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則 (ちくま学芸文庫)」をに読んでおくとより理解が深まるかもしれません.
*2017/6/21追記
最後から二つ目のパラグラフの文章が変だったので少し読みやすくしました.まだ日本語としては少し変かもしれません.
同パラグラフで引用している論文が,ワグナーさん達の最近の論文で引用されていたようです.本文には関係のない内容の部分でですが.