More genes underwent positive selection in chimpanzee evolution than in human evolution. Bakewell et al. PNAS 2007.
「ヒトとチンパンジーが共通祖先から分かれてから正の淘汰を受けた遺伝子を数えてみたところ、チンパンジーの方におこったものの方が多かった。」
という内容です。当然といえば当然ですが、集団遺伝学の知識が無いと、当然という答えは導くことはできません。一見、ヒトとチンパンジーではヒトの方がより進化した形質を持っているような印象を受けますが、目に見える形質がすべてではありません。
正の淘汰とは何か?というところから始めましょう。正の淘汰とは、有利な形質を現す突然変異が、後の世代に急速に広がっていくことを指します。そのような突然変異を持った個体はより多くの子孫を後世に残しやすいからです。良い形質に対して淘汰が働くので、正の淘汰(positive selection)と呼ばれます。所謂ダーウィン的な進化概念の中心となるものです。
ヒトとチンパンジーを比べてみましょう。ヒトは高度な知性を持っていますし、複雑な操作、毛の無い肌、直立二足歩行など、先祖のサルには見られない多くの形質を持ちます。しかし、生物学的にみてこれらは中立な目印なのでしょうか?我々は人間です。我々は自分自身を見る場合に、自分に特徴的なものをついつい過大評価してしまう傾向にあります。
これまでの研究で、分子データ(DNA配列データ)をもとにして、正の淘汰を受けた遺伝子を発見する手法が確立されてきました。もし、タンパク質のアミノ酸置換が生存上有利に働き、急速に集団中に広まったとすると、そういった遺伝子では、アミノ酸の置換を行う非同義置換が、アミノ酸配列に影響を与えない同義置換より高頻度で集団中に固定します。ヒトとチンパンジーのゲノム配列がわかった現在、どちらの遺伝子により正の淘汰が働いたのかを調べることができるようになりました。上記の論文では、最尤法を用いて正の淘汰を受けた遺伝子を探し出し、それがヒトの系統で起きたのか、チンパンジーの系統で起きたのかを比べています。
その結果、チンパンジーの系統でより多くの遺伝子が正の淘汰を受けているという結果が出ました。集団遺伝学の理論では、淘汰の強さは集団サイズが大きくなると強くなります。集団が大きくなると、偶然によって突然変異が固定する確率が少なくなり、逆に有利な突然変異の固定する確率が上がっていきます。これまでの調査では、チンパンジーの有効な集団サイズ(生殖に関わる個体数の理論値)は現在のヒト集団のおよそ倍だとされています。したがって、集団サイズの大きいチンパンジーでは、淘汰の影響はヒトよりも大きくなります。これらの結果は当然予想されうるものであり、なんら意外性はありません。しかし、これまで論文ではっきりと述べられたことはありませんでした。
ここでは正の淘汰について述べましたが、負の淘汰についても同じことが言えます。負の淘汰とは、突然変異が悪い方向に働く結果、そのような変異が集団中か ら除かれることを指します。ヒトの系統では集団サイズが比較的小さいため、有害な突然変異が効率よく淘汰されていきません。したがって、ゲノム全体を比べ た場合にはヒトの系統でより多くのアミノ酸の変異が固定しています。たとえアミノ酸の置換が有害(致死ではない)であっても、集団サイズが小さければ偶然によって固定する確率が高くなるからです。このような理由以外にも、近年のヒトの生活環境の変化により、有害な変異にかかる淘汰圧は減少しているからとも考えることができます。しかし、それらの効果が長いヒトという種の歴史にどれだけ影響しているかはまだわかりません。
実際に正の淘汰を受けた遺伝子というものはどういったものでしょうか?
タンパク質の修飾・代謝、転写因子など、どれも直接形態的な特長には結びつきがたいものです。これは当然の結果ですが、我々はつい表面的な形質に注目しています。代謝など身体の内部で行われている環境への適応は直接は目で見えなくても生物のゲノムに大きな足あとを残しているのです。
ただし、ヒトがヒトであるための形質をつかさどるような遺伝子の中にも正の淘汰を受けたとされる候補が見つかっています。ヒトで小頭症を引き起こすMCPH1やASPM、言語障害を引き起こすFOXP2などがこれまでに挙げられています。