2007年5月31日木曜日

生物の複雑さは適応の結果かどうか

Michael Lynch The frailty of adaptive hypotheses for the origins of organismal complexity PNAS 2007 104: 8597-8604
実際の講演の様子がストリーミングで視聴できます。


先日の僕のエントリーでもたまたま述べたのですが、表現型の進化を何でも適応的に解釈してしまうことに対する反論です。少々議論が飛躍しているところもありますが、考え方としては面白いと思います。

彼の考え方は非常にシンプルです。集団遺伝学の理論に基づくと、集団サイズの大きい生物ほど遺伝子にかかる淘汰圧は強くなり、小さくなると弱くなります(ヒト-チンパンジーの話を参照)。集団遺伝学の理論は突然変異とその集団中での頻度の変化という概念に基づいた理論です。これは現代的な進化の解釈そのものになっています。すなわち、バクテリアからヒトまですべてがこのルールに従って動いていると仮定されます。

バクテリアなどの原核生物から哺乳類のような複雑な生物を見渡してみて何が違うか。集団遺伝学の立場からは集団サイズの大きさと突然変異率の違いがもっとも大きいものであると考えられます。突然変異率は、ある方向への偏りが無い限りは相対的な淘汰の強さには影響しないので、生物の複雑さとより強い相関関係にあるのは集団サイズのほうであるということができます。自然界を見渡してみると、生物が複雑になればなるほど、その集団サイズは小さくなっていく傾向が見られます。例えば、ヒトは約0.1%程度のDNAの個体差を持つ集団を形成していますが、ショウジョウバエの個体差は約1%程度、酵母などの単細胞生物は10%くらいDNAが違っていても平気で遺伝子を交換します。

Michael Lynchは、「生物の複雑さは単なる淘汰圧が弱まったことだけでも説明可能であるから、あえて適応的解釈を持ち込まなくても良い」、と主張しています。真核生物の遺伝子はエキソンーイントロン構造を持ち、非翻訳領域や複雑なプロモーター、多数の重複した遺伝子族を持ちます。我々はついつい、これらの複雑性が持つメリットのみを考えてしまいますが、ゲノム構造が複雑になれば負の淘汰圧(コスト)は大きくなり逆にデメリットとなります。Lynchは色々な例を挙げて、これらが必ずしも適応を必要しないと説明しています。

ここで問題になっているのは、「果たして本当はどうだったのか?」、ということではありません。もし検証により適応的な証拠があがるのならば、適応的な結果だったと結論づけることができます。しかし、中立的に証明できることにわざわざ適応という仕組みを持ち出すことはないということは、不必要な説明はできるだけ省く(オッカムの剃刀と呼ばれる考え方)のが科学的に正しいだろうというスタンスに立っての発言なのです。

僕は、彼の主張はもっともであるが、複雑さが適応的だという仮説を立てて何かしら研究を行うのは良いことだと思います。色々な生物のゲノムがわかってくると、更に面白いことがわかっていくでしょう。ただし、それはあくまでも仮説だということを理解していなくてはなりません。盲目的に適応を当てはめていっては、真に進化を理解することはできないのではないでしょうか。

つづく...

2007年5月24日木曜日

DNA鑑定の限界

たまには息抜きの記事でも紹介します。

Who's Your Daddy? Paternity Battle Between Brothers


最近ではすっかり法廷でも定着したDNA鑑定ですが、現在の科学手法にも限界はあります。

ことの発端は双子の男性が同じ女性と関係を持って子供ができたことに始まります。残念なことに二人共に責任を相手に押し付け、自分は関係ないと言い張りました。

問題は法廷にまで持ち込まれDNA鑑定が行われましたが、予想通りというかなんというか、DNA鑑定では一卵性双生児の区別はつきません。子供と母親のためにも早いところ法廷闘争が終わると良いですね。どちらの子供にしても遺伝的には自分の子供と変わらないわけですから。

2007年5月21日月曜日

ハエの「自発的意志」

Order in Spontaneous Behavior
Alexander Maye, Chih-hao Hsieh, George Sugihara, Björn Brembs

なかなかセンセーショナルなニュースタイトルなので目にした方も多いと思いますが、幾つか但し書きを。内容は、目隠しをしたハエが非ノイズ的な行動パターンをしたという実験結果です。それが何故自発的意志を示唆するのでしょうか。

まず、この論文が掲載されたジャーナルについて少し説明をします。PLoS ONEというジャーナルです。PLoSシリーズはアメリカの学者が先頭になって作ったジャーナルで、「オープンアクセス」と「オンライン」が合言葉になっています(実際は紙媒体もありますが)。つまり、「タダ」で「インターネット」で読める雑誌ということです。NatureやScienceなどの一流科学雑誌は商業誌ですが、これらに対抗したものと考えても良いかと思います。

その中でもPLoS ONEは最近できた変わり者で、査読は必要最小限(技術的な評価のみ)にして、あとの論文の評判は、オンラインでつけるコメントによって決めていこうというものです。このアイデアはこれまでの、査読審査->論文掲載=研究の評価、というともすれば権威主義になりやすい評価機構ではなく、新しい発見をしたらとにかくウェブでオープンにして、そのあとで評価を決めましょうというものです。最近の記憶では、ポアンカレ予想をしたロシアの数学者の論文は科学論文雑誌ではなく、インターネットで公表されたものでしたが、後に評判を得て信頼性が評価されました。こういったプロセスを目指しているのでしょう。

というわけで、この雑誌に載ったからといってそれが科学権威によってお墨付きを与えられたものではないということは注意すべきです。

さて、問題の自発的意志ですが、著者のブログによると、論文では一言もこの言葉は使われていないのですが、アメリカのマスコミからはこの言葉(free will)を使っても良いかという問い合わせがあったようで、本人はそれを許可したようです。前もって言葉の使用について著者に断るというところはアメリカのマスコミの誠意ある行動と言えるのではないでしょうか。

僕は、非ノイズ的な行動パターン=自由意志というところが勉強不足で理解できないのでコメントは避けますが、一見ランダムに見える複雑な行動の中にパターン性を見出すという方法論では面白いところがある論文だと思います。単なるノイズなのか、それとも意味があるパターンなのか、ともすれば宇宙からの電波を拾って宇宙人からのメッセージを解読するような研究になってしまいそうですが、生物の研究も近いうちにこの問題を深刻に考えなければいけなくなると思います。

兎に角、上記のジャーナルサイトでは査読者のコメントも見ることができるので、こういった賛否両論な論文でこのジャーナルシステムがどう機能するかが楽しみなところであります。

2007年5月16日水曜日

単一遺伝子の頻度依存型選択による行動の多型の維持・2

ショウジョウバエのforaging遺伝子には自然集団で二つの対立遺伝子、RアリルとSアリルが知られています。Rアリルを持つ幼虫はSアリルを持つ幼虫より餌を探してよく動き回ります。foraging遺伝子の正体はとあるリン酸化酵素のようです。

Sokolowskiのグループは、この二つの遺伝子型を持つ系統を色々な割合で混合し栄養不足の状態で飼うと、お互いに最初の頻度が低いときほど生き残る率が高いということを示しました。片方にGFPを遺伝子導入して、遺伝子型の違いが目で見てわかるようにデザインされています。高栄養条件ではこのような違いは見られませんでした。自分(遺伝子型)の頻度が低いほど適応度が高くなるので、負の頻度依存型選択と呼ばれます。

二つの系統は遺伝型のバックグラウンドが違うので、foraging以外の遺伝子が関わっている可能性があります。これを反証するために、片方のタイプのforaging遺伝子だけを別のタイプに置き換えても、同じような傾向が観察されました。

この論文では、単一の遺伝子によって行動が変化し、更に頻度依存的に選択圧が変わるということが遺伝学的に示されています。自然状態では栄養条件は悪いほうにあると考えられるので、このような行動の多型(戦略)が自然集団に維持されていることの説明になります。その場に居座っている個体が多いと、それを出し抜いて動き回る行動のほうが有利になり、逆にみんなが動き回って食べ物を探している状態では無駄な競争を避けて、我慢して動かずに餌を食べるという戦略が理にかなっています。二つの行動の割合は環境が一定である限りどこかの値に落ち着くでしょう。このような遺伝子はこれからもたくさん見つかってくるのではないでしょうか。

2007年5月15日火曜日

単一遺伝子の頻度依存型選択による行動の多型の維持・1

Maintaining a behaviour polymorphism by frequency-dependent selection on a single gene
Nature 447, 210-212 (10 May 2007) | doi:10.1038/nature05764; Received 12 January 2007

表題の日本語訳はNature Japanによるものですが、論文のオフィシャルな日本語訳って難しいですね。直訳すると表題のようにわけがわからなくなるし、かといって意訳するのも本来の目的から考えてどうかなといったところです。

このブログでは単なる日本語訳ではなく、僕の解釈を添えて論文を引用していきます。というわけで、最初に自分のスタンスを明確にしておくことが必要だと思ったので、まずはそこから始めます。

ダーウィン的な進化生物学の命題の一つに、生物の表現型がどれだけ、またはどうやって環境に適応しているかを明らかにするということがあります。表現型というのは生物の形態だけでなく、行動も含まれるすべてのものです。ダーウィンの自然選択説では、生存に有利な個体が多くの子孫を残す確率が高くなり、そのような形質が遺伝することにより、生物の多様性が作り出されます。

したがって、現在に生きている生物の形質は多かれ少なかれ自然選択を受け環境に適応していると考えられます。キリンの首が長いのは高いところの葉っぱを食べるのに有利だったからでしょうし、イルカが四つ足を失ったのも海での生活に適応した結果でしょう。

しかし、ここに落とし穴があります。進化学者はついつい「生物の形態・行動は適応的である」ということを前提にしてしまいがちです。なぜなら、それが仕事であるし、興味の対象でもあるからです。しかし、適応的でなくともたまたま決まってしまった形態や行動は存在するでしょう。遺伝学者のLewontinが遺伝子決定論者に対して挙げた例を真似てこういう質問をしてみましょう。「子供がホウレンソウを嫌いで大人は嫌いではないというのは生物学的に適応している結果ですか?」

もちろん適応的な説明はできます。子供の成長に必要なカルシウムの吸収はホウレンソウに含まれるシュウ酸によって阻害されるので、ホウレンソウの苦味を幼年期に嫌いになるようにヒトの味覚は進化してきた、ということはできます。しかし、この説明を聞いて「なるほどな」と思ってしまってはダーウィン教の信者と呼ばれても仕方ありません。科学的には説得力のあるデータを与えてこれを証明しなければいけません(自然科学と進化学の話はここでは割愛)。特に、行動は形態よりも複雑なものです。生物の行動もすべて適応的であると解釈すること、特にそれをヒトに直接当てはめることは危険です。飲み屋で一杯飲みながらする分には面白い話ではありますが。

さて、以上の文章は行動の進化学について否定するものではありません。きちんとしたデータと真面目な解釈が大事であるということです。

僕は遺伝子を用いて進化を検証するという立場で研究を行っています。とすると、行動の進化を調べるには「行動を決定する遺伝子」というものが存在しなければなりません。本当にそういった遺伝子は適応的に進化しているのでしょうか。

もう一つの疑問は、ゲーム戦略という行動に関わる遺伝子が本当にあるかどうかです。ゲーム理論とは行動の進化と多様性を説明する重要な理論ですが、一つ大きな問題があります。それは、タカ派、ハト派などと呼ばれる戦略を決定する遺伝子が本当にあるかどうかということです。そういう行動をする個体はこれまでに観察されていますし、生態学者によって様々な研究が行われています。しかし、そのメカニズムはなんであるのか、ということの証拠は乏しいとしか言えません。おそらく、ヒトを含む哺乳類などでは単一の遺伝子によってある行動が制御されているという例は想像が難しいでしょう。行動というものはいくつかの遺伝子が強調的に働いて決定されており、「ホウレンソウを嫌う遺伝子」や「人見知りの遺伝子」といったものは存在しないはずです。

表題の論文では、ショウジョウバエを実験に用いています。大腸菌の走化性も行動の一種ですが、昆虫などは遺伝的にプログラムされた複雑な行動をとるので、行動の遺伝的研究にはおあつらえ向きです。単一の遺伝子が行動に影響を与え、その行動は主に他者との競争に関わります。そのような遺伝子が存在すること、更に頻度に依存して自然選択を受けているのではないかというデータが示されています。

つづく...

2007年5月10日木曜日

遺伝子の参照名を使おう

Natureのコメント
Human reference sequence makes sense of names. Douglas L. Crawford

遺伝子にはいくつもの名前があります。なぜかというと、遺伝子を発見した人がそれぞれ好きな名前をつけてきたからです。ある人はタンパク質の結合性からX結合タンパクと呼ぶかもしれませんし、ある人は細胞内の代謝系に注目してX化合物リン酸化酵素と呼ぶかもしれませんし、またある人は遺伝子の変異体が行動へ影響を与えるので「恥ずかしがり屋」遺伝子とか呼ぶかもしれません。

ところが、研究がどんどん進んでくると色々な人が研究した遺伝子が実は同じ遺伝子であることがわかってきます。「同じ遺伝子」という定義は厳密には難しいですが、ここでは、「ゲノムの同じ場所から転写されている機能ユニット」としましょう。この概念は、色々な生物のゲノム配列が解読されたことにより決定的になります。ゲノム配列の決定とは、それぞれの遺伝子に住所と番地を与えるものです。つまり、今まであかの他人だと思っていた人たちが実は一つ屋根の下で暮らす家族の一員であったということがわかってきます。そうであれば、個々の家を個人の名前ではなく表札の名前で呼んで住所と一対一で対応させることによって色々な研究者が情報を交換できるようになります。

しかし、この考えはゲノム指向の研究者には受け入れやすい提案ですが、遺伝子指向の研究者にはなかなか受け入れられません。やはり、自分で見つけて名づけた遺伝子や慣れ親しんだ遺伝子の名前には愛着があります。実際のところ、論文では統一的な名前よりも、昔から使われている名前を使われることがよくあります。そもそも、統一名が何なのかすら知らない研究者は数多く存在します。

遺伝子の統一的な命名は、HUGOという組織が古くから推進しています。実際は「統一」という言葉よりも「参照」という言葉が適切でしょう。遺伝子の色々な名前はそれぞれの一面を示していますから、どれが本物でどれが間違いであるかという問題ではありません。ある参照をデータベースで引けば、それがどのような別名を持っているのかがすぐにわかります。中立的には単なる番号で呼べば良いのでしょうが、便宜的に代表的な名前の
アルファベット3~5文字程度になる省略形が用いられています。

また、現在はNCBIがEntrez Geneというデータベースを作製しており、基本的にHUGOの名称に基づいて独自のIDを振り、PubMed、RefSeq、OMIMなどのNCBIデータベースと統合されています。他にもヨーロッパのEnsemblや日本のH-Invなどが代表的な統合データベースとして知られています。これらの大規模なデータベースは相互の関係もしっかりと構築され、どれとどれが対応するのかが整理されています。

一つの遺伝子の機能を追い求めることも重要ですが、その生物学的意義はその遺伝子だけを見ていてもわかりません。読者の立場を考えても、パブリックな論文に身内だけの名前を使うことはお勧めできませんし、将来の発展の可能性も失うでしょう。ただ、どうしてもHUGOの遺伝子名が気に入らない場合は申し立てもできるようです。